アナタハ何ヲ信ジマスカ [2006年 以降]
日曜日の穏やかな午前、インターフォンが鳴って、片言の日本語の女の子が云う。
「スミマセン・ヨロシイデスカ。」
日曜日の穏やかな午前、たいていは起き抜けかあるいはまだ寝ている僕は、不意をつかれる。
「誰?」
「神カラノ・メッセージ・デス。」
ああ。
ああ。
神様がこの僕にどのようなメッセージを送ってきたのか非常に興味はあったが、僕は素直に正直に彼女に伝える。
「眠いんです。ほっておいてください。」
そして静かに受話器を戻す。幸いなことにインターフォンはもう鳴らなかった。(ゴッド・ブレス・ユー。)
むかし、そういう人たちのひとりと、玄関で無神論について1時間ばかり議論をしたことがある。かみ合わない不毛な議論だった。そのような人たちは数多のサンプル・ケースを持っているので、おおかたの反論には技術的な切り返しを持っているのだ。
それから僕はそのような人たちと議論することはけっしてすまい、と心に決めた。幸いなことに(ゴッド・ブレス・ユー)彼らはそれほどしつこくはない。感情的ではない。ただ救われようとしない僕を哀れんで去ってゆくだけだ。たとえばいささか機嫌の悪い僕が「F●CK」と受話器に呟いて切ったとしても。
彼ら・彼女らにとって、今はちょっとしたチャンスなのかもしれない。神様に救われようとする人たちの心の声が聞こえるのかもしれない。いつもより神様のメッセージに耳を傾ける人たちが増えていると考えているのかもしれない。
議論はやめた僕だけど、それでもさっきの彼女が天罰とか警告とか、そのような意味のことを最初に云ったら、面倒なことになったかもしれないな、とぼんやりと思う。
神様のメッセージ。直接、云いに来てくれたらいいのに。
でも僕は神様に会ったら絶対に一発ケリを入れてやる、と決めているので、結局は聞けないかもしれないけれど。ゴッド・ブレス・ユー。
目を閉じない・耳を塞がない・俯かない [2006年 以降]
僕はできる限り耳目を開き、知ろうとすることにした。
そして記憶する。
目の前の情報の確度を調べ、記憶してゆく。
何が(あるいは誰が)僕らと敵対するものなのか。
はからずも、いま身近な人たちの、いつもより暴露した心根を見て、
ナチュラルに選別しているように。
弱い僕よりももっと弱くて、
目を閉じ耳を塞ぎ俯いてしまった愛すべき人たちのためにも。
僕は記憶する。
僕に今できることのそれがすべて。
恐ろしくてしかたがない [2006年 以降]
僕のところはネットは切れない。携帯も今日はずっと使える。
映像を見てると泣いてしまう。
緊急地震速報が出るので見ていないわけにはいかない。
服も脱げない。
気仙沼には行ったことがある。
怖くてしかたがない。
途切れてしまった人のことを思う。
僕は何故こんなにもたくさんの糸を切ってきたのだろうと思う。
無事なんだろうか。
知る術がない!
不確かな時代(の継続、あるいは再来) [2006年 以降]
年も改まったし、少し酔ってもいるので(『〆張鶴』また送ってくれてありがとう、友よ。)、真面目なことを書いておこう。僕は基本的には真面目な人間なのだ。基本的じゃない部分はかなり不真面目かもしれないけれど。
80年代、僕らは「新人類」、と呼ばれた。ちなみに1986年の流行語大賞。
良い意味性を持っている言葉ではない。古代エジプトからの相も変らぬ年長者が若輩に冠する「最近の若いものは」の亜種と捉えることもできる。一般的な「新人類」の傾向の定義は、社会の一員であることを自覚しない無責任さと、現実を仮想現実化(フィクション化)し直視・直面しない不確実性。
僕がその時代を思うとき、イメージは高くそびえる壁が浮かぶ。前世代が構築した、高度に管理された(と信じられていた)あの社会では、僕らはそうなるしかなかったのだ。既成の立体迷路を右手法か左手法か、とりあえずそびえる壁に沿って行くしかなかった。
個人的には「社会が悪い」という物言いは嫌いだ。社会が悪いと呟くくらいならば社会を良くする案でも捻りだしてみたら良いのだ。思考するだけでも。僕は「想像力」の信奉者だから(ついでに反骨が本性だから)、そう思う。でも尾崎豊が歌ったこともある面ではあの時代の真実だ。尾崎の歌が嫌いであることに変わりはないけれど。
でも。そう、でも、だ。
あの時代、あんなに強固で、絶対に思われていた立体迷路は、この数年、見事に綻び始めた。もしかしたら最初からつぎはぎだらけの張りぼてだったのかもしれない。総ての組織は等しく腐敗する、という僕の持論からすれば、ついにそのときが来た、ということなのかもしれない。
僕らの前世代が構築したシステムは壊れ始めている。
おそらく本当ならば、もっと早くに僕らが壊してしまうべきだったのだろう。
一党独裁の政治、年金システム、マスメディアの世論形成ファシズム、検察・警察の公権力ファッショ。
僕は本当にようやく気づいた。80年代、拳を振り上げてファッショを憎むロックンロールを歌っていた頃、既に僕はファッショの中にいたのだ。今もまた。
80年代、常に苛苛して、なんにも満足できなかった僕のフラストレーションは、そこに要因があったのではないだろうか。
最近の若い者は、とは僕は云わない。だって、彼らは僕らとおんなじだからだ。社会とコミットする意欲がなく、フィクション化した現実に遊ぶ。僕らがきちんと腐敗したシステムを壊さなかったが故に、彼らはもっと劣悪な迷路に放り出されてしまったのだ。
不確かな時代。それはテクノポップの80年代だけの話ではなく、今もまた、あるいは、ずっと継続していたのだ。
もうたぶん、猶予はない。
カンやイシハラの悪夢に付き合ってる余裕なんて、もうないのだと、僕は思う。今年どうにかならなければ、もうどうしようもない。僕はそんな予感がする。
2011年 はじまり [2006年 以降]
ハッピィ・ニュー・イヤー、ミスター・ロレンス。
卯年ですね。兎です。ラビット関根のカマキリ拳法の年です。ナオコおばあちゃんはとりあえず関係ないです。
最近ペットとして兎を飼うのが流行っているみたいだけど、兎(のウンコ)は猫(のウンコ)の6.5倍くらい臭いので僕は好きじゃないです。あと、兎はけっこうワルそうな顔をしてますし。蒼いのももう復帰したんだそうですが。
兎は一羽二羽と数える鳥類です。鳥です。獣肉じゃなくて鳥肉なので食べても良かったのです。
僕はこれを本で読んで知って、小学校低学年の頃にクラスで披露して、嘘吐き呼ばわりされました。翌日には感心されましたけど。みんな家で親に聞いたんでしょうね。ざまあみろ。
兎はでも食べたことないなあ。蝦夷蛮人なので熊や鹿やトドは食べたことがあるんだけど。あとはフレンチで、カエルもカタツムリも。兎もフレンチの食材だけど、ないなあ。どこか食べられるところ探してみよう。卯年に兎を食らうというのは正しい気がする。
キャロルの三月兎は、「三月の兎のように気が狂っている」という慣用句から来ています。まあ、繁殖期にはたいていの動物はそんな感じですが。猫とかね。人間は始終そうですかね。
あとは『プレイボーイ』のマークとか、バニー・ガールとか、くだらないことしか思いつかないので、お餅焼いて食べて寝ます。
今年もよろしくです。
2010年 おわり [2006年 以降]
早いもので今年も残りわずかとなりました。今年は年越し蕎麦をもう食べてきました。なので僕の中ではもう2010年は終わっています。ところで、僕は、僕の中でとか、僕的にとか、あんまり云いません。率直に云って好きじゃない言い回しです、僕の中では。
蕎麦は好きだけど、蕎麦通じゃないので、あったかい蕎麦が好きです。がちがちのゴムみたいな十割蕎麦を有り難がる文化も持ってないので、鴨南蛮がベストだと考えています。柚子胡椒がちゃんと付いてくる店だったら何も文句はないです。鴨南蛮に柚子胡椒を付けない店には大いに文句はあります、僕的には。
以前ふらりと入った店で(店の構えは良かった)、鴨と葱のあんかけみたいなものが載っている鴨南蛮(もどき)を出されたときは驚きました。あまりに驚いたので持っていた湯飲みを壁に叩きつけようかと思いました。蕎麦茶じゃなくてただの緑茶というのもどうなんでしょうか。トイレに行って、出てきたら店の親父にぎろりと睨まれました。何も声をかけずにトイレを使ったのが気に食わなかったのでしょうか。蕎麦打ち中に肩が外れればいいのに。いつも行く店の美味しい鴨南蛮より200円も高かったことがまたなんとも。外の暖簾が風で飛んでいって小学校の焼却炉の中に飛び込めばいいのに。二度と行かないし、僕の持っている卑小な口コミュニケートでせいいっぱい逆宣伝してやろうと思います。食い物の恨みは恐ろしいのです。
なんか、なんにもない一年だったようで、気が抜けています。
まあ、毎年いろんなことが降りかかるというのが僕の中ではデフォルトだったので、良い年だったのでしょうか、僕的には。
それでは、良いお年を。
ところで、この「良いお年を」って、意味不明じゃないですか? だって、残り数日とかじゃないですか。次の年のことを祈っているんですかね? うーん。
それでは、良いお年を。
参考文体:新聞(笑)のコラム
尖閣ビデオ流出 [2006年 以降]
youtubeに尖閣ビデオがアップされました。観ましたよ。
これはもはやクーデターだね。
この国はもう、統治されていないようだ。
ツイッターが死んでるのもこのせい?
20100604お昼 [2006年 以降]
外れかあ。
KANと大事マンも混同してるし。
冴えも切れもないです。
これではブログじゃなくてツイートですね。
ツイッターのアカウントはあるんですが、
設定めんどくせ。